昭和五十四年七月二十日 朝の御理解
御理解 第五節 「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参 っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てれば わが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心 せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天 地金乃神と一心なり。」
合楽では、天地金乃神と一心といわれる。その天地と一体になる。天地金乃神と一心といのは、そういう事だと思う。
そこに天地がいつも、そこに言い通しに言うておって下さり、囁き通しに囁きかけて下さるという事を合楽では強調します。
金光大神がお取次下さって、いろいろとそれに対する、まあ生き方とか、それに対するとお答えをして下さったわけである。それがそのまま、教えに残っておる。
だから教えそのものが、金光大神の言葉であると同時に天地金乃神のお心でもあるわけ。だからその教えを行ずる以外にないわけなんだけれども、なかなか行じよっても、それが軽く見られるような事になり、こうは教えてあるけれども本当だろうかと真意の程を疑うわけではないけれども、それを重く見なくなって来たという現代の金光教の状態である。
いやむしろその教えを、自分がその深さ広さに触れずして、それを右左に言う人があるわけ。
そういう意味での合楽は、もう徹頭徹尾この教えの追求であり、金光大神のいわゆる言葉を、それもそれの真意の程を実証しながら、おかげを頂いて来ておる。
私は昨夜ここで、椛目から合楽にかけて道が段々開けてくるまでに、合楽で本当にまあ私を親先生と言い、親先生の信心を本気で頂いていこうとする人達が、次々と亡くなっていかれて、ずうっと夕べ考えよったら、十三、四名ありますね。
例えば上滝さんとか、光橋先生とか、久保山先生達もやっぱりそうなんですね。そしたらね、神様からね、本当に相すまんと表現だすけれども、モルモットという事を頂いたんです。モルモットというのは医者が実験する時に、やっぱ犠牲にする小動物ですよね。成程、なら光橋先生とか久保山先生、上滝さん、まあそれ以前にもいくらもありますね、深町さんとかね。あなた方も覚えとったでしょか、深町さんというてあのね、来とりました。それから荒木さんとか、又は小さい豊喜さんというあの小児結核で子供を預かっとった、次々とまあ亡くなってまいりました。
まあその時分に私が教祖金光大神の教えを通じて、そして、いく為のまあいうならばモルモットの替わりになっ下さった。それで合楽のまあ、こうしておかげを頂いておる、その基礎的な、いうならばその根とも柱ともなられた霊達です。
だからそういう、いうならば尊い一つの人命の人柱的な御用を頂いて下さった方達に対しましてもね、その上にうち立てられた合楽理念です。
その合楽理念は、もうだから絶対のものだ、経験に経験、実験に実験を積んで確証が出来た答えが合楽理念です。ですから合楽理念の実証を実験実証させて頂くところからで、天地のいうならば囁きとか天地の言葉がね、流れてくるように私共の心、耳に響いてくるものが合楽理念だと思います。
昨日も申しましたが、昨日今本部で修行中の古川達夫夫婦が手紙を半ばしか読んでなかった。その半ばだけでも感動したんですけれども、その後の事を昨日研修の時皆に読んでもらって、まあ研修したんですけれども本当に素晴らしいですね。
合楽で一年何か月合楽理念の、言うならばマスタ─いわゆる勉強を一生懸命させてもらった。けども親先生がああ言われるけれども、あのう十の中に八つ、二っはまあだ半信半疑であり疑うておったという。所が、いよ々修行の現場である所の学院でそれを実験実証させて頂く中に、成程親先生が言われる通りに、合楽理念、いわゆる金光教の信心というてもいいですけども、なら金光教の信心を合楽理念にまとめた、その合楽理念こそ十全の教えであると言う事をいよ々体験した。と言う例がずうっと日記ふうに書いてあります。いっぺん皆さんにも読んで頂きたいと思う。ね、
しかも最近ではね、お伺いしたことに対して、神様がいち々、いち々御返事下さるようにおかげ戴いたと言うのですからね、素晴らしいでしょう。とてもなら威智雄さんが二年前の威智雄さんと今日のその威智雄さんと思うたら、もうどうしてこの様な事になって来たであろうかと、自分ながら感涙に咽んでおるです。
今、五代様、いわゆる平輝先生が毎朝金光教の後を継いで、御神勤めになるわけです。まあ威智雄さんにとってみれば、妹婿になるわけですね平輝先生。
その妹婿であります平輝先生を本当に生神様と頂こうと、毎朝平輝先生のお出まし前に拝ませて頂いておるという事が書いてございましたが、まあ本当に、もうとにかくね、信心の感動というものは、今まで出来なかった事が出来るだけでなく、有難く出来るところが素晴らしいですね。でけん、でけんではやっぱりでけません。
信心の有難さに触れる為に、実験実証これに本気にならなきゃならない。覚えておる、実行しておる事が、只中途半端な覚えておるでは、絶対覚えなけりゃ出来ん。
マスタ-しなけりゃでけん。ここは合楽理念をもってしたら、こう言わねばならん こう行わなければならないという事が、しかも容易う説いてある、又容易う実行出来るように、その気になればでけておるのですからね。そこにいうならば宗教的感動とかね、信仰的感動が湧いてくる。その有難涙に咽ぶような心の状態の時には、どういう修行でも有難く出来るです。
眠くて起きられなかったという事がなくなってくるんです。そこにです、なら、合楽でいわれる天地のリズムというリズムが、聞こえに聞こえ通しに聞こえてくるわけです。ですからリズムに乗っての生き方というのですから間違いがあるはずがありません。いわゆる神の声をここに囁き通しに囁かれる。囁きを聞き通しに聞きながらの信心生活、合楽理念ではそれを言うわけですよね。
だから本気でね、合楽理念の実験実証者としてのおかげを日々頂いていかねば駄目です。
神様は、教祖金光大神が御在世中は、いうならば神がものを言うて下さったわけです。神様からの直伝であったところの、お言葉であり御教えを取次いで下さった。
御伺いも出来た。ところが今日に至っては、その御伺いするわけにもいかんし大変いうなら平易な表現で説いてありますから、その平易な表現の為にかえって分からないというところが沢山教祖の教えにはあります。
私は、夕べ遅うここに出てまいりまして、今日の一時の夏期信行の御理解がどういう事だったかなと思うて、あのうと書かせて頂いたら、「体を作れ、何をするにも体が基なり」というまあ簡単な教えです。体を作れ、体が基なりというわけです。
それで私は、あのう六年前と十二年前に頂いた、その御理解、神話になっているのを開いてみたんです。もう説きようがないんですよ。誰でん分かるじゃないですか。 何をするでん信心がなかったっちゃ、何度言ったっても、もうそれこそ「命あっての物種」というでしょうね。体を作れ、体が基だと。それだけもういいようがないです。それで六年前の御教えはどうか、十二年前の御教えはどうかという事を開いてみてから、もうこれはいつも事です、けれども、本当に驚きです。十二年前の、いうならば御教えが今日にそれこそ息づいておると、いうならそういう感じがするんですよ ちょっと読んでみましょうか。「体を作れ、何事も体が基なり」
体を作るという事はどんな事であろうか。栄養をとる事も大事、適当な運動も又必要である。何事も体が基であるように、おかげを心が基である。こころの健全を願うと同時に作らねばならん。それには心の栄養をまず必要とする。苦い思いをする事を苦しい悲しい事も、全て神様から差し向けて下さる栄養と悟り有難く頂く事である。 教えを行ずる事は心の運動である。これが十二前の御教え。六年前の御教えがどういう事かというと、生命あっての物種、肴があってお酒が生きる。お酒があって肴が生きる。人間万事生かし合いに生きるが、真実の生き方。
教祖様の御歌
「なすといへなし得る条件恩恵のなくば成し得ず何一つとして」
というのが、これが六年前の御教え。聞いておられてから今頂いとって、それこそ息づいておるでしょうが。御教えがこういうふうにして説き明かしてあるから、今日の御教えどうも説きようがない。又今日ここに出た時に、三十分間の間に何とか頂くでしょうけれども、そういうように神様がね、生き生きとして合楽の場合はお伝えになっとる。そのお伝えになっとる、それもそのままを私共が頂かずしてどうする。
昨日の御理解じゃないですけれども、研修の時にある研修生の先生がです、あの徳川家康の例話がでておりましたですね。人間は一生重たい物を持って道を歩くようなものだ。そういうものじゃないという事を私は言っておるのですけれども、そういう人達、そういう人間、人生というのもは、重い荷物をもって坂道を歩くように難しいものだと、思い込んでおる人達ばかりなんだという事です。
それはどういう事かというと、昨日の御理解そのまま、暗い、いよいよ真っ暗くなってゆく真っ黒い世界である。私はそれを地獄の世界につながって行くんだと。
だからほとんどの人が暗黒の世界に、人間は苦しいもんだ、それを行くのが人生だと思い込んでおる人がどれ位あるくか分からんのですけれども、信心があってもやはりその生き方から、脱却しきれないでおるならば、それは同じ暗黒の世界に、一歩々一歩々近づいて行っておるという事になるでしょうが。ここを本当にいうならです回れ右をして、いうならば合楽理念の実験実証、そこのところの私はきっかけを頂いて本気で自分の心に取り組ませて頂く。しかもその取り組ませて頂く手立てがね、合楽理念では容易う説いてあるです。
夕べも遅うに私がここに出てまいりましたら、一修行生の方が大変な悩みを持ってここにお届けに来た。真っ暗い中です。夕べも十一時すきでしたから私は本当に苦しかろうという悩みを聞かせて頂いた。そしたら「10・1」を書いて「10・0」、(簿記の人がよく続けて書くでしょうが)を書いて、すぅ-っと次に持っていけれるようになっとるところを頂いたんです。1000だから、○○さん結局どういう場合であっても、その都度その都度自分を空しゅうしていく以外にないよ、しかもこれは限りなく続くよと、そういう自分を空しゅうしなければならない事が、もう神様の手によらなければ、神様のおかげを頂かねば手がないという事は、自分が空しゅうならねば駄目なんだ。
自分が右にしたい、左にしたいという思いがいっぱいあって、だからお神様にお任せすると、それはお任せする事ではないです。
自分というものが空しゅうなる、右になろうが左になろうが自分をゼロする。そしてそのゼロは、又次のゼロに移っていけれる事だという事、してみると一つまるがあれば10であり、二つ丸になれは100であり、もう一つゼロになれば1000である、という程々に、素晴らしい信心というものが育っていくのだと。だから、まずは我情我欲を捨てて、いうなら自分をゼロのところに置いての信心でなければ、本当の合楽理念を身につける事は出来ないとこう思うです。
それをね、難しくなく、その時点その時点の問題を通して、いうなら容易う、それは悩みをありますよ。苦しみもありますけれども、教えを頂いてそれを実行していく中にです、本当に神様のおかげを頂く、神様の手によらねば手はないとい程のものを自分に実感させて頂くところからね、いわゆる宗教的感動というものが起こってるるのです。
宗教的感動の前には、もう暑いもなければ寒いもあいという心の状態が、例えば古川が手紙をよこしておる、その手紙にもそれを感じるのです。だからそういう世界に住まなければならない。ところが果して、昨日の研修の時にも申しました事でしたけども、これだけ沢山の信者信奉者が金光教の中に信者が居るが、そういういうならば道を辿らして頂いておる者が何人居るだろうかと。
只、御取次を頂いておかげを頂いた。頂かなかったとい一喜一憂して、そして金光様から離れきらず、本気でつきもきらず、○○教会の先生ではないけれども「泣きも得ず飛びも得ずして時鳥」で一生終わってはならないと私は思うんです。
金光様の信心を頂いとっても力も受けられんし、おかげも大した事はっきり頂けないし、といって信心を止めもしきらず、そういう教師信者がどれだけ居るかわからん ここに一線上に出らなきゃ合楽理念に向かって行く絶対の道に出らなきゃならない でなかったら助からないよと、まあ研修の時に申しました事です。なら、信者の中にも随分ある。そして昨日の御理解を頂きますと、まあ私共が終着駅に近づいて、そして気がついたんじゃもう遅かと昨日申しましたけれども、ほんなこつ、そんなもんだろうかねというて、あまりにも悲しい事ではないか、合楽に御縁頂きながら、こういう素晴らしい教えに浸りながら、それを行じきらずに、もうそこに自分の終着駅が近づいて来ておる。助けようがないだろうか、助かりようはないだろうかという話をしました。
そしてそれを話ながらね、ハッと思わせて頂いた事は、もう一年も前だったでしょうかね、私が敬親会のお年寄りばっかりの会に「ああた方は亡くなる時にゃ遺言ば書いときなさい、私が死んだら私の隠居、田地田畑は全部、合楽教会にお供えさせて下さい」というて遺言ば書いときなさい、今はでけんてっちゃ、こんなら絶対助かるばいというで皆さんも記憶があるでしょう。
これは年寄りだけでなく皆さんもそうです。本当の事がでけとらんでも、それでも本当にいうなら合楽道に入りたい、合楽理念の道を極めて行きたい、御理解と合楽し合える本当の世界に生きても死にて住みたいと思うからね、これが要るんです。
ここに助かる手立てがもう一つ残っとったと、私は昨日とても愉快になった、研修しながら。だから明日これば信者に話そう、というて皆が大笑いしたんですけれども又今、事実話とるね。とうとう我情我欲だけの信心じゃったけれども、だからいよいよん時にはです、私共がいうなら自分を空しゅうしてですね、私が死んだならば私の財産は全部、合楽教会にお供えして下さいというような事になったら、そこにいうならば合楽行きの光が与えられる事は、ここに最後の決め手、最後の助かりの手立てがあったねというて、私は本当に嬉しかったです、それにきづかせて頂いて。
昨日の御理解までは、もう助かる手立てはない、もう年をとっていよいよ片足はお棺の苗に突っ込んどるようになって、なら長い人生を振り返ってみると、お粗末御無礼の事ばっかりだったと気がついても駄目だ。というふうに昨日は申しましたけれども、ここに助かる手立てがひとつあるという事を、まあ昨日研修の時に話た事でしたけれども、今の私共の信心というのは自分という者を空ししゅうするという事。
みなさんがお伺いして右がいいです左がいいですと、その時だけは皆さんが空しゅうなっとる時です。自分の思いというものを捨てきっとる時です。
だからそういう捨てきった生き方のものの上に、いうならば合楽理念が立脚しなければ本当の、いうなら合楽理念による助かりの理念だというても、永劫助かって行くという程しの、あの世まで持って行けるという程しの、この世でも有難いという心の状態の中に生きるという程しの信心は生まれません。
それを教祖は我情我欲を離れてと、こうおっしゃる。欲を離してしまえとはおっしゃってはいない。我を離せとおっしゃっおる。我欲である我情である、ね。
そこには間違いなく、成程我が身は神徳の中に生かされておるという事が分かる。 神徳の中に生かされておる喜びにです、御理解が囁き続けに続けて下さるリズムを聞く事が出来る。如何に金光様の信心は、その御返事を頂いて帰れるというてもです今までは何処へ行っても片便の願い捨て、神がもの言うてくれるところはなかったろうがと、教えておられるがです、神がもの言うて下さる。それを、直に聞く事がでけれる道を合楽では説いておるというふうに思います。
どうぞ。